2011年11月16日水曜日

大島かおるの市議会リポート

「薫風34号」から
「大震災」後の政治に問われていること
自立と共助の社会へ
上田市政の3期目、私たちの新しい任期がスタートして半年が過ぎようとしています。東日本大震災から1カ月後に行われた統一自治体選挙は、日々増え続ける犠牲者数と、厳しい避難所生活の報道が続けられ、福島第一原発事故の収束の見通しも立たない中で行われました。そして残念ながら、この間の政治をめぐる動きは、被災地の声に応えることが出来ないばかりか、戦後政治が抱えてきたさまざまな矛盾をさらけ出すことになったのではないでしょうか。

戦後日本が築き上げてきた政治・経済・社会の仕組みそのものがきしみ、揺らいでいることは、20年ほど前から指摘され続けてきました。しかし、常に先送りされ続けてきたツケはあまりにも大きく、「郵政民営化が改革の本丸」(小泉元首相)「減税で日本はよくなる」(河村名古屋市長)「今の日本の政治で一番重要なのは独裁」(橋下大阪府知事)という、民主主義とは程遠い、扇動型のポピュリズム政治を生み出しています。

今回の「大震災」と「原発事故」は、私たちがあたりまえのものとして感じてきた「成長」や「平和と民主主義」そのものの、問い直しも迫っていると言えます。
私たちはこれまで、「地方分権」「市民参加と自治」「情報公開」など、政治を市民の手に取りもどすための歩みを積み重ねてきました。そして今、分権改革の流れを「地域主権」へと、自立と共助の社会を支える「新しい公共」の創造へと、その歩みを進めていかなければなりません。

たゆまぬ議会改革の歩み
上田市長は3期目の市政運営に当たって、「私たちは、超高齢社会、人口減少そして原発事故発生後という、かつて経験をしたことのない時代を迎えるにあたり、過渡的なエネルギーである原子力発電に代わる代替エネルギーへの転換を早急に進めるとともに、ライフスタイルを見直し、新しい生活のあり方を再構築しなければなりません。こうした困難な時代にあって、私は、市民自治の力こそが未来を切り開いていく力になると確信しています」との所信を述べられました。

また、安倍・福田内閣で総務大臣を務めた増田寛也元岩手県知事は、「自治体と住民が主体となる共助の仕組みづくりが復興の鍵になる。議員は共助をつくり出すまとめ役になる必要がある」と言います。

札幌市議会では、これまで8年間にわたって議会改革を進めてきました。今期は「議会基本条例」の制定に向けての作業が行われています。また、報酬や定数の削減にのみ注目が集まる中で、議会改革の目的は地域民主主義の実現であって、効率性を求める行政改革の論理はなじまないことも訴えてきました。あまりにも、改革=経費削減という論理に金縛りにあっているのではないかと考えたからです。皆さんが理想とするこれからの議会像、議員像を是非知りたいと思います。

皆さんから与えられた4年の任期、新しい自立のモデルを創り出し、市民社会の成熟を担い、持続可能な社会へと歩みを進める市民の一人として、そして、「住民自治の根幹」と呼ばれるのにふさわしい札幌市議会を目標に、全力でがんばります。

「原発報道」を読み解く
広がる放射能汚染
「ホットスポット」「低線量被ばく」「生涯健康調査」「ガレキ処理」など、事故当初から懸念されてきた課題に、ようやく焦点が当てられるようになってきた。「原子炉のメルトダウンと水素爆発」—レベル7の過酷事故からは当然に予想されたことでもあるが、繰り返された「今、直ちに健康被害を及ぼすことはない」という官房長官談話が耳にこだましてくる。情報が正確に伝えられていなかったのか。予想される被害の大きさを想像し、あえて冷静を装ったのか。放射能汚染にあまりにも無知であったのか…。

天候や地形などの自然条件によって放射能汚染の広がりを予測するシステム(SPEEDI)によるデータがあるにもかかわらず、何故、避難地域を同心円状に区分けしたのかも大きな疑問である。情報が与えられず、高濃度の放射能汚染地域に1カ月以上も生活していた住民の健康被害に、誰が責任をとるというのだろうか。

原発推進の仕掛け
被災・避難者への補償を含めて、損害賠償額が一体いくらに膨らむのかわからない中で、国と東電の責任は曖昧なままである。

国が定めた計画に従って、電力会社は原発の新増設を繰り返してきた。そのために保障されている地域独占と総括原価方式による利益。電源の多様化や供給責任という建て前だけが消費者である私たちには強調されてきた。立地や安全性の認可は国が行うが、実施主体は独立した民間電力会社。監督する側とされる側とはいえ、実は極めて密接な運命共同体。国と電力会社、そして原子力行政では国の下請け機関に等しい都道府県と立地自治体のいずれもが頬かむりをしないように、しっかりとその動きを監視する必要がある。

計画停電という脅し
東京電力は夏場の供給に見通しが立たないとして、計画停電なるものを強行した。
勝手にエリアと日にちと時間を決めて、停電するかしないかはその日にならないとわからないという「無計画」なものだった。肝心の夏場は、市民や産業界の節電努力もあって、余裕をもって乗り切ったことから考えると、「電力不足キャンペーン」には、原発再稼動への思惑が見え隠れしている。

そもそも、これまでも指摘されてきたように、電力需要のピークは1日のうちのわずか1時間ぐらいの間に現われる。ピークを下げるだけで相当量の供給予備力が生まれるはずだ。
電力会社が主張するように、原発は「安定供給」に不可欠なのだろうか。
原発は巨大で複雑な技術で成り立っていることから、小さなトラブルであっても全ての原子炉を停止して、長期間の点検を行わなければならない宿命を負っている。
大事故のリスクとともに、電力需給の体制そのものから、根本的な見直しが求められる。

自然エネルギーは高くつく?
さすがに、経済産業省の資料を鵜呑みにする人は少なくなった。
しかし、原子力発電のコストがどのようにして算出されているのか、まだまだ不明な点が多い。年6千億とも7千億とも言われる原子力関係予算。電源三法交付金や補助金、都道府県が運営する安全管理センター(オフサイトセンターと呼ぶ)の費用、政府や自治体の職員など、建設費以外に莫大なお金がつぎ込まれている。

一方、自然エネルギーは常に脇役に追いやられてきた。
ようやく再生エネルギー促進法案が成立したが、電力会社の買い取り枠を大幅に増やしていくための制度や法律は追いついていない。立地自治体の苦悩も深い。財政上の恩恵は受けながらも「地域再生の起爆剤」とはならず、過疎化がさらに進み、原発なしでは財政破綻となることが目に見えているからだ。「過疎」を踏み台にしてつくられてきた「成長」と「繁栄」もまた、厳しく問われている。

希望へと歩みだす人々
「フクシマ」からの報告
東日本大震災から五カ月が過ぎようとしている8月8日から10日まで、福島県郡山市、南相馬市、いわき市を訪問した。ガレキの撤去や仮設住宅の建設が進んではいるが、復旧から復興への歩みには、いまだに多くの困難が立ちはだかっている。そして、過酷な状況と一日も休むことなく24時間向き合い続け、希望を生み出そうとしている人たちがいる。

郡山市 村民と寄り添い続ける
テレビ等でもたびたび報道された、最大規模の避難所。地震による被害で施設の3分の1が使用不能という複合コンベンション施設には、3月16日に川内村から約2400人が避難した(訪問時の避難者は約200人)。その経過には想像を絶するものがある。

■3月12日
緊急避難地域に指定された隣接する富岡町から、人口約3千人の川内村に約6千人が避難。
■3月14日
川内村が屋内退避地域に指定される。すでに、陸の孤島状態で食料などの支援物資がまったく届かない。
■3月15日
川内村と富岡町の合同災害対策本部で全村避難を自主決定。避難開始時点で残っていたのは、川内村民約1200人、富岡町民約4千人。

足の踏み場もない、通路までふさがった避難スペース。調理スペースがまったく無いため、すべて配給に頼らなければならない食事。続く余震への恐怖など、避難開始時の混乱から、全国初の生活支援ボランティアセンターである「おたがいさまセンター」の設立、そして今日までの動きをお話しいただいた、川内村社会福祉協議会の古内さん。淡々と5カ月間の経過を語り、最後に「これまで、避難所生活の質の向上と、生活リズムの建て直し、生活意欲の向上を目標に、ミニFM局の開設、広報誌発行、喫茶・サロン運営など、避難所住民の参加を基本に取り組んできた。8月末での閉鎖が決定され、今後は、郡山市内の仮設住宅に住む2千人、県外で避難生活を送る千人の『村民』の生活を支え、寄り添い続けるという、さらに困難な課題に挑戦することになる」と結んだ。

川内村は全域が30㎞圏内だが、約百カ所で実施しているモニタリングの放射線量は、郡山市の3分の1から4分の1程度だという。豊かな森林と冷涼な気候を生かした農業を中心に生きてきた人々が、ふるさとに戻れる日はいつなのか。

南相馬市 描けぬ復興への道筋
国道沿いに広がる一面の原野は、時々現われるガレキの山がなければ、そこが住宅地であったことがウソのようだ。

人口約7万1千人の南相馬市では、3月末までに20㎞圏内に住む約1万2千人を含めて約6万人が市外に避難。生活インフラがほぼ復旧した現在でも、なお半数の住民が戻っていない。水田はすべての作付けを休止した。

その中で、農業再建に踏み出そうとする若い仲間たちと歩む市議会議員の但野さん。NHK記者(なんと赴任地は室蘭)、コンサルタント会社を経て、昨年12月にトップで初当選し、いわば初仕事が大震災への対策となった。「市の復興市民会議が立ち上がっているが、原発事故への対応に追われて、長期的な視点での復興への議論がなかなかできない。住民の約半数が市外に避難している中では、市民の意向を把握できず、新しいまちづくりへの展望は描きづらい。原発による被害の賠償問題も、個人レベルの立証や弁護士の確保など、長期化することが予想される」と、苛立ちを隠せない。

一方、自宅が津波で流され、店舗も地震で大きな被害を受けながら、原町地区の中心街でいち早くレストランを再開した、株式会社エイムの小澤社長は、「市が動かないので、東京電力と直接交渉して、中小企業への補償を約束させた。しかし、原発マネーから補償金マネーへでは復興につながらない。商工会議所を中心とする『復興ビジョン会議』の中で、なんとかグランドデザインをつくり上げたい」と、意欲を語る。

製造業の中核であった原町火力発電所の復旧には3年以上を要し、サービス業も福島原発の城下町である双葉郡住民をお得意様としていた。津波と地震による直接被害に加えて、原発による避難区分が異なることにより、地域間の利害が対立する恐れもあるという。
復興への一歩を踏み出すには、まだ時間がかかりそうだ。

いわき市 マニュアルには頼れない
海岸部は津波により壊滅的な被害を受けながらも、中心部は比較的被害が少なく、20㎞圏内の双葉郡から約1万5千人、いわき市民約1万人が避難生活を送っている。東京電力関係者の拠点ともなっており、街は大震災前に比べてにぎわいがあるという。

しかし、市内でも一番被害の大きかった小名浜地区に入ると、状況は一変する。
小名浜支所長の江尻さんのお話をきく。「この5カ月間、無我夢中で走り続けてきた。復興に向けて何一つできていない。特に3月15日の水素爆発で、支援物資やガソリンがほとんど入らなくなり、地域全体が廃墟状態となり、復旧の大幅な遅れにつながった」。
3月11日当日の様子については、「死者・行方不明者のほとんどは、第二波の津波でやられた。防災無線も、地震で各支所の基盤が損傷したのか機能しなかった。救援の食料も、仕分けや配送の人手がなく、賞味期限切れが続出した。職員がサボっているとか、余って捨てているという報道もされていたが、現場の混乱をまったく理解していない。自治体では防災計画が作られているが、専門用語や細部に及ぶものが多く、人が動くためのマニュアルになっていない。足りないところは現場に任せることが大事だ」。

海岸部では、半壊状態でそのままになっている家屋が目につく。道路が狭くて重機が入らない、権利関係の整理に時間がかかり撤去作業に入れないなどで思うように進まないという。小名浜漁港は、岸壁や施設の再建以前に、放射能汚染によって漁そのものが出来ない状況が続いている。

最後に
私が訪問した三つの自治体の、それぞれの現在(いま)を駆け足で報告させていただいた。
これとても、私が見聞きしたことのほんの一部である。

避難を強いられた自治体や住民の多くは、東京電力や政府からの情報提供や指示のない中、自らの判断で着の身着のまま故郷を後にせざるを得なかった。そして、大震災と原発事故から7カ月が経過し、緊急避難準備区域が解除されても、故郷に帰還してあたりまえの生活を取り戻すには、まだまだ多くのハードルが待ち受けている。

半年以上にわたって人の住めない、立ち入れない場所は「死のまち」としか表現のしようがない。その厳しい放射能汚染の現実と正面から向き合うことのないまま、安易な「言葉狩り」に走るマスコミ報道を鵜呑みにすることなく、私たちは、私たちの想像力の限りを尽くして、困難に立ち向かい、歩み続ける人々と、しっかり寄り添っていきたいと思う。
南相馬市の警戒区域検問所前で











ビックパレット・おたがいさまセンター内